名古屋地方裁判所 昭和59年(ワ)3555号 判決 1990年4月27日
主文
一 被告は原告に対し、金五九三万一五三四円及びこれに対する昭和五九年一二月七日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを四分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告が被告の従業員たる地位を有することを確認する。
2 被告は、原告に対し、次の金員を支払え。
(一) 昭和五九年四月一日から毎月二五日限り一か月二二万一二〇〇円の割合による金員。
(二) 金一八一七万〇〇六〇円及びこれに対する昭和五九年一二月七日から支払ずみまで年五分の割合による金員。
3 訴訟費用は被告の負担とする。
4 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 原告の主張(請求原因、以下「請求原因」という。)
一 地位確認等請求について
1 原告は、昭和三六年二月六日、被告に雇用された。
2 被告は、昭和五九年三月三一日限り原告を解雇したとして、同年四月一日以降原告の被告従業員としての地位を争っている。
3 被告は、原告に対し、右当時、毎月二五日支払の約定で一か月二二万八七〇〇円の賃金を支払っていた。
4 よって、原告は被告に対し、原告が被告の従業員としての地位を有することの確認並びに昭和五九年四月一日から毎月二五日限り一か月二二万一二〇〇円の割合による未払賃金(一部請求)の支払を求める。
二 損害賠償請求について
1 原告の業務内容
(一) 原告は、昭和三六年二月六日から大型クレーンの運転業務に、昭和四一年三月ころから小型クレーンの運転業務にそれぞれ従事した。
(二) 小型クレーンの作業は、石炭を、船からトラックに積む「荷揚げ」、トラックが運んできたものを船に積む「船おろし」、トラックが貯炭場に運んできたものを更に円錐状に積み上げて整理する「まくり」などであった。
(三) 原告は、被告が保有していた小型クレーンのうち「五号機」(二〇五クルーザークレーン、以下「本件クレーン」という。)を運転したが、その作業姿勢は、右手でバケットの上下用と開閉用の二本のレバーを握り、左手はクレーンを回転させるためのレバーを操作し、腰をかけて両足を浮き足状態にしてブレーキペダルの上に乗せ、不安定な中腰の姿勢で上肢、下肢を同時または交互に動かす動作を一時間に一五〇回ないし二〇〇回も繰り返し、腰部に負担がかかるものであった。そして、昭和四一、二年ころは、一日当たり、一時間当たりの各取扱屯数ともに急激に増加し、労働密度が過密となっていった時期であった。
2 第一次労働災害(以下「第一次労災」という。)
(一) 原告は、昭和四二年三、四月ころから腰に鈍痛、肩や頸に「こり」を感じるようになり、同月三日、みなと診療所で初めて受診し、腰痛症と診断された。同年夏には一旦軽快したものの、同年秋になると再び悪化したため、同年九月二七日からは、はり、灸、マッサージ治療も受けるようになった。しかし、それでも軽快せず、痛みが激しくなって睡眠も十分とれない状態になったことから、昭和四三年一月三一日、主治医の指示により休業するようになった。
(二) 労働保険審査会は、昭和四七年一一月二日付で、原告の右腰痛症は業務に起因して発症したものであることを理由に、名古屋労働基準監督署長が昭和四三年一〇月二三日付で原告に対してした療養補償給付を支給しない旨の処分を取り消した。
3 第二次労働災害(以下「第二次労災」という。)
(一) 原告は、前述のとおり、昭和四三年一月三一日から休業したが、当時、被告は原告の腰痛症を私病扱いにしたため、治療を受けている状態であったが、やむなく同年六月一日から原職に復帰し通常勤務するようになった。
(二) 原告は、昭和四四年一月三一日、本件クレーンの運転を交替しようとした際、アウトリガー(クレーンの転倒防止用ジャッキ)がゆるんでいるのを見付けたため、これを締めようと力を入れたところ、腰に衝撃を受け災害性腰痛症に罹患した。
(三) 名古屋南労働基準監督署長は、昭和四四年三月一〇日付で、原告の右(二)の腰痛症は業務に起因して発症したものであることを認めた。
4 第一次・第二次労災による休業
原告は右各労災の療養のため、昭和四三年一月三一日から同年五月三一日まで、昭和四四年二月一日から昭和四六年七月一五日まで、昭和四八年二月二一日から昭和五〇年九月一五日まで、昭和五四年七月一二日から昭和五八年三月一〇日まで各休業し、治療してきた。
5 被告の責任
(一) 使用者は、労働者を雇用して自らの管理下に置き、その労働者を利用して企業活動を行っているものであるから、その過程において労働者の生命・身体・健康が損われることのないよう安全を確保するための万全の措置を講ずべき高度の注意義務(安全配慮義務)を負っている。
(二) 第一次労災における被告の安全配慮義務違反
(1) 本件クレーンの運転は、前述したとおり、極めて不安定な姿勢で作業を繰り返す業務で、常時腰部に相当な力が加わるものであるから、原告にそのような業務を命ずる被告としては、原告が腰痛症等に罹患しないよう健康診断等の健康管理に万全を期するとともに、作業量、作業時間、作業密度等の労働条件や、本件クレーンの構造改良等に万全の配慮を尽すべき義務が存する。
(2) 被告は、原告の発症前後から、本件クレーンの運転手である高橋昭一、別府正成、遠藤清助、石田明慶らがいずれも腰痛を訴えていたにもかかわらず、健康管理として単に一般的な健康診断を行っていただけで、このような症状すら把握していなかったのであるから、健康管理上の義務違反があることは明白である。
(3) 被告は、昭和三七年から昭和四二年まで、次のとおり<表省略>、本件クレーンの取扱屯数を増加させたが、特に昭和四一、四二年のそれは飛躍的に増え、著しい労働強化を行っているのであるから、被告が作業量、作業時間、作業密度等の労働条件について配慮すべき義務を怠ったことは明らかである。
(4) 被告は、本件クレーンを導入するに当たり、そのメーカーである石川島コーリング株式会社に問い合わせしたというが、メーカーが自社製品に安全対策上問題があると回答することは通常考えられず、メーカーに問い合わせすれば十分とはいえないし、むしろ客観的、公正な調査を怠ったことが問題であるし、本件クレーンについて、被告がスポンジクッションの座布団や椅子の調整用の穴の増加などの改良を原告が本件クレーンに乗務する前に行ったとしても、原告の発症には何ら影響がなかったのであるから、いずれも原告の腰痛の予防上は何ら効果はなかったとしかいいようがない。しかも、本件クレーン導入の約一年後である昭和三五年七月に導入された「七号機」は本件クレーンに比較して作業に必要な力は少なくてすむよう改良されていたのであって、原告発症当時には既に本件クレーン自体が時代遅れになっていた可能性すらある。したがって、本件クレーンの構造改良等についても、被告は安全配慮義務を怠ったと言わざるを得ない。
(三) 第二次労災における被告の安全配慮義務違反
(1) 被告は、原告が第一次労災により腰痛症に罹患し、未だ治療中の状態であったのであるから原告を職場復帰させるにあたっては、原告の主治医とも相談のうえ、原告の当時の症状に適合した業務に段階的に就労させ、もって、腰痛症の悪化を防止するとともに、原告の労働力の回復を図るべき義務を負っていた。
(2) しかるに、被告は第一次労災を労災として認めようとせずに私病扱いにし、原告の職場復帰にあたって、原職にフルタイム復帰させ、原告の腰痛症状や作業内容、作業量、作業時間等について何ら配慮しなかった。そのため、原告は本件クレーン運転の周辺作業をしようとして第二次労災に罹患したのであるから、被告が右(1)の安全配慮義務に違反したことは明らかである。
(四) 右のとおり、原告の腰痛症は、被告の安全配慮義務違反に起因して発症したものであるから、被告は主位的には民法四一五条により、予備的には同法七〇九条により、原告が被った後記損害を賠償する義務がある。
6 原告の損害
(一) 後遺障害による逸失利益
(1) 原告は、第一次・第二次労災によって、背部、腰部、両下肢に重圧感、凝り感、冷え等の後遺障害を残し、労働者災害補償保険法施行規則別表第一障害等級表所定の第一二級一二号の等級(以下「後遺障害一二級」という。)認定を受けた。
後遺障害一二級は、一般には就労に差し支えなく、労働能力喪失率は一四パーセントとされているが、本件で、被告は、後述のとおり、原告が「業務に耐え得ない」すなわち、就労不能と主張して解雇しているのであるから、もし被告の右主張が認められるとすれば、原告の労働能力喪失率は、後遺障害一二級の一般の例よりも特段に大きい筈で、少くとも三〇パーセントを下回ることはなく、被告が右主張を固執している本件では、三〇パーセントの労働能力喪失率を基礎とせざるを得ない。
(2) 原告(昭和一四年二月一五日生れ)は、解雇された昭和五九年三月三一日当時四五歳で向後二二年間は就労可能である。そして、解雇当時の原告の賃金は一か月二二万八七〇〇円であるが、本件ではその一部である二二万一二〇〇円で年収を計算すると二六五万四四〇〇円となる。
(3) したがって、原告の右後遺障害による逸失利益は、ホフマン式により中間利息を控除して計算する(右期間に対応する新ホフマン係数は一四・五八〇である。)と一一六一万〇三四五円となる。
(二) 慰謝料
腰痛症に対する慰謝料としては三〇〇万円が、後遺障害に対する慰謝料としては三〇〇万円が、それぞれ相当である。
(三) 弁護士費用
原告は、本訴の提起、追行を原告訴訟代理人に委任し、報酬の支払を約したが、被告に請求し得る損害は一五〇万円である。
(四) 損益相殺
原告は、労働者災害補償保険から後遺障害に対する補償給付として九四万〇二八五円の支給を受けたので、これを右損害額から控除する。
7 よって、原告は被告に対し、主位的に労働契約の債務不履行、予備的には不法行為による損害賠償請求権に基づき、損害賠償金一八一七万〇〇六〇円及びこれに対する本訴状送達日の翌日である昭和五九年一二月七日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第三 請求原因に対する認否及び被告の主張等
一 請求原因に対する認否
1 請求原因一のうち、1、2の事実は認め、3の事実は否認する。
2 請求原因二1(一)ないし(三)のうち、(二)の「円錐状」に積み上げる点は不知、(三)の「不安定な中腰の姿勢」「腰部に負担がかかるもの」「昭和四一、二年ころ労働密度が過密となっていった時期であった」点は否認し、その余の事実は認める。
同二2(一)のうち、原告が昭和四二年四月ころ腰痛症と診断されたこと、原告が昭和四三年一月三一日から休業したことは認め、その余の事実は知らない。同二2(二)の事実は認める。
同二3(一)のうち、原告が昭和四三年六月一日から出勤したことは認めるが、その余の事実は否認する。同二3(二)の事実は否認する。同二3(三)のとおり、原告が業務上災害の認定を受けたことは認めるが、これは、原告主張の事故態様を前提にするものではない。
同二4のうち、「昭和五四年七月一二日」の点は否認し(同月九日である。)、その余の事実は認める。
同二5のうち、(一)の主張は認め、(二)(三)の主張は争う。
同二6(一)のうち、原告が背部、腰部、両下肢に重圧感、凝り感、冷え等の後遺障害を残し、後遺障害一二級の認定を受けたことは認めるが、その余の事実は知らない。同二6(二)(三)の事実は不知、(四)の事実は認める。
二 被告の主張
1 原告の解雇
(一) 被告は、原告に対し、昭和五九年二月二六日到達の内容証明郵便で、就業規則四八条各号に該当するものとして、原告を同年三月三一日付で解雇する旨の意思表示をした(以下「本件解雇」という。)。
(二) 解雇理由(その一)
(1) 被告の就業規則(以下「就業規則」という。)四八条一号には「精神若しくは身体に故障あるか又は虚弱老衰若しくは疾病のため業務に堪えないと認めたとき」は解雇する旨の定めがある。
(2) 本件解雇は、次のとおり、右就業規則に該当することを理由とするものである。
(イ) 原告の腰痛症の特異性
原告は、昭和四二年四月ころ腰痛を訴え昭和四三年一月三一日から同年六月七日まで休業し、昭和四四年一月三一日には、後述のとおり、アウトリガー事故を起こし、爾来、休業と職場復帰訓練を繰り返し、昭和五八年三月一〇日治癒(症状固定)認定がされるまで約一六年間も長期療養していたもので、これは被告のクレーン運転手で腰痛症に罹患した者が短期間に全治しているのと比較すると極めて特異な例である。
(ロ) 原告が、昭和五八年七月一八日、出勤申し入れにあたり被告に送付した診断書には「(傷病名)腰痛症、(治癒年月日)昭和五八年三月一〇日、(障害の状態の詳細)背部、腰部、両下肢に板状、線上の筋硬結を認め、重圧感、凝り感、冷えが著明で脊柱起主筋に板状硬結が著しい。これらの筋全体に圧痛著明で背部、腰部、臀部、両下肢に異常発汗、皮漠低下を認める。背腰部全体及び両下肢に触覚の異常感、痛覚の低下を認め、両下肢腱反射の低下を認める。両下肢伸展テストで両膝屈筋群(ハムストリング筋群)の牽引感あり、背腰筋及び腹筋群の筋力低下を認める。以上により一五分しゃがんで仕事すると腰、両臀部が痛くなり、雨天時、夜、背腰臀部にうずく痛みがある。腰椎レントゲン異常なし。」旨の記載があった。
(ハ) 原告は、解雇当時の症状について、「立って前かがみの格好を一五分なり二〇分していると背中あたりがとても突張り、痛んでくる。また、しゃがみ込んでじっとしているのがとても辛く、痛みがでてくる。さらに、冷え感があり、冷房してあるところでは足首、腿や腰などがとても冷たく、冷房のないところでも、ぬれ雑巾を腰や下肢、胸等につけているような感じがする。背中の突張る感じがあり、夜寝て明け方背中がとても硬くなっている感じがある。」と右診断書に副う供述を当公判廷でしている。
(ニ) 就業規則五五条には「就業すると病気の悪化するおそれのあるもの」は就業させてはならない旨の定めがあるところ、原告は、被告の原告に対する健康状態の問い合わせに対し、全く応答しなかったものであり、被告は港湾荷役業務を営むもので、それは本船(貨物船)の入港時、能率的迅速にしなければならない業務であって、労働組合、職場責任者と種々協議した結果、原告に適した職場はないという結論になった。
(ホ) なお、原告は、昭和三八年から昭和五九年にかけて、頭蓋骨骨折、頭蓋内出血、脳振とう、口腔内挫創、頭部外傷後遺症、右小脳筋麻痺、右神経性耳鳴、食道神経症、急性口蓋扁桃腺炎、本態性高血圧症、交通外傷後遺症、両足趾汗疱疹、両手指汗疱様湿疹、アレルギー性鼻炎、右中耳カタル、急性咽頭炎、高血圧症、左室肥大症、外傷性症候群、急性鼻カタル、副鼻腔炎など多数の私傷病に罹患し、その治療を受けていたものである。
(ヘ) 右(イ)から(ニ)によれば、原告は「身体の故障または疾病のため業務に堪えないもの」と、右(イ)(ニ)(ホ)によれば、原告は「虚弱のため業務に堪えないもの」と認められる。
(三) 解雇理由(その二)
(1) 就業規則四八条二号には「已むを得ない業務上の都合によるとき」は解雇する旨の定めがある。
(2) 本件解雇は、次のとおり、右就業規則に該当することを理由とするものである。なお、右「業務上の都合」とは整理解雇の場合に限らず、労働者の行為が使用者の経営秩序、職場の規律を乱し、労使間、労働者間の信頼関係を破壊し、これ以上雇用関係を継続することができないと社会通念上認められる場合も含むものである。
(イ) 原告は、昭和四四年一月三一日業務上負傷し、以後休業していたが途中職場復帰訓練と称して、昭和四六年七月一六日から昭和四八年二月二〇日まで(一回目)、昭和五〇年九月一六日から昭和五二年一二月一四日まで(二回目)、昭和五三年二月二〇日から昭和五四年七月七日まで(三回目)の三回にわたって出社しているが、職場復帰のための機能回復訓練などに励んだ様子は全くなく、右期間中の出退社時間、外出時間は特に不規則であり、復帰訓練の名のもとに自由気ままな行動をしていた。
(ロ) 被告は、原告のこのような行動について、度々病状の問い合わせや復帰訓練の状態を話し合おうとしたが、原告はこれに応じなかった。また、この間、原告が所属していた全日本港湾労働組合東海地方名古屋支部(以下「全港湾労働組合名古屋支部」という。)の幹部からも職場復帰訓練について頻繁に注意、指導を受けていたが、原告は一方的に自己に都合のよい主張をするのみであった。そのため、意見が対立して脱退届を提出するに至った。
(ハ) 原告は、長期休業中も治療に専念することなく、自動車を乗りまわしたり、職業病対策連絡会(以下「職対連」という。)の活動をする等不明な行動が多い。特に、前者については、判明しているだけでも、昭和五二年一二月一五日、昭和五五年一月二日、昭和五七年一一月五日の三回にわたって原告は交通事故に遭遇し、多額の補償金を得ているのである。
(ニ) 被告の他の従業員も、右事態に接して原告に対し、不信感・不快感を抱き全く信頼関係が失われていた。原告と従業員間の人間関係並びに原告の後遺障害などを考えると原告を配置する仕事及び職場はなく、また、原告を受け入れてくれる上司も原告と協調して仕事をする同僚、部下もいない状態であった。
(ホ) 以上のような状況下において、被告の真面目な他の労働者の稼働の犠牲と負担の下に、被告が原告との雇用関係を継続することは、他の労働者の意思に反し、勤労意欲を低下させ、会社の円満な労使関係の秩序や統制を乱し、生産性を減少させるものに他ならない。
(四) 解雇理由(その三)
(1) 就業規則四八条三号には「その他前二号に準ずる已むを得ない事由のあるとき」は解雇する旨の定めがある。
(2) 右定めは、企業経営上、または従業員の労務管理上、原告との雇用関係を継続することができないやむを得ない場合を広く指すものであるところ、本件解雇は、右(二)(三)記載の事実が仮に就業規則四八条一号、二号に該当しないとしても、同条三号に該当することを理由とするものである。
2 安全配慮義務
(一) 被告は、本件クレーンの導入、その後の改良並びに作業体制に、次のとおり、最善の努力を払い、原告に対する安全配慮義務を尽した。
(1) 被告は、昭和三五年ころ、港湾業務が増加したため、移動式小型クレーンを導入することになり、同業他社の状態や意見も参考にし、数社のメーカーの機種を慎重に比較検討した結果、肉体的な疲労度が最も少なく、最も運転しやすい本件クレーンを選定した。これは、当時の水準としては、レバーにかける力の量も少ない人間工学上問題のない新鋭機であった。
(2) その後、本件クレーンの運転手の中に腰の不調を訴える者がいたので、被告は、運転手と話し合って、本件クレーンの座席に厚手のクッションマットを取り付けたり、ブレーキの踏み面を広くしたり、運転席を運転手の身長や体格に合わせて調節できるようにしたり、肘受けを付ける等の改良をしてこれを緩和する努力をした。
(3) 原告が本件クレーンに乗務した当時の作業体制は、他社が殆んど一名で運転しているのに対し、被告では二名ないし三名交代で運転する体制をとっていた。そして、平均稼働日数は一か月につき一九・一日で、一日当たりの平均稼働時間は一時間五一分、取扱屯数は一七一・六五屯であり、これは当時の同業他社と比べても決して労働密度の高い職場ではなかった。
(二) 原告は、被告が第一次労災を労災と認めようとせず私病扱いにしたため、昭和四四年一月三一日のアウトリガー事故(原告のいう第二次労災)を招いたと主張する。
しかし、名古屋南労働基準監督署長は、第一次労災に関する原告の業務上認定申請に対し、昭和四三年一〇月二三日付で、これを業務外と認定し、愛知労働者災害補償保険審査官も、昭和四五年三月一六日付で右判断を支持した。したがって、アウトリガー事故発生当時においては、第一次労災は会社業務に起因しない私病であるとの公権的判断が示されていたものであるから、被告が右判断に従って第一次労災を労災として認めなかったことにつき安全配慮義務違反をいう原告の主張は失当である。
3 原告の過失
右アウトリガー事故は、原告が岸壁三〇番エプロンにおいてボーキサイトのトラック積作業をしていたところ、本件クレーンのアウトリガーのねじを締める際、足元にこぼれていたボーキサイト(豆粒状の直径約五ないし八ミリメートルのもので、人がこれに乗るとよくすべるもの)で滑り、はずみで自ら路上に尻もちをついて腰部に受傷したものである。かかる場合、原告としては、足元にこぼれていたボーキサイトを片付け、足元の安全を確かめてから作業をすべき注意義務があるにもかかわらず、これを怠ったものであり、右事故は原告の右重大な過失により発生した事故で、被告の安全配慮義務違反により発生した事故ではない。
4 腰痛症に対する予見不可能
本件クレーンの使用によって原告に疲労性腰痛症が発症することを被告が予見することは不可能であった。すなわち、被告が導入した本件クレーンは、それ自体が新規の機械であり、これを使用することは被告として初めての経験であるところ、当時これによる疲労性腰痛症の発生は医学上、経験上の知見が必ずしも十分ではなかった。また、行政庁も昭和四七年一一月二日に至って初めて原告の腰痛症を業務上災害と認定したもので、それまでは業務外の私病と認定していたことからも右の点は裏付けられる。
5 因果関係の不存在
仮に、被告に何らかの安全配慮義務違反があったとしても、原告の腰痛が長期化し、後遺障害を残すに至ったのは、以下の諸事実が介在し、それらが主因となっているもので、被告の右違反と原告の損害との間には相当因果関係はない。
(一) 原告は、前記1(二)(2)(ホ)のとおり多数の私傷病に罹患しており、これが腰痛長期化の大きな原因となっていることは明らかである。
(二) 原告は、昭和四二年の第一回全国職業病交流集会から毎年一回開かれる同集会に出席のため上京し、そのほか年三、四回上京して労働省と職対連の関係や労災打切りの問題などを交渉していた。この活動は昭和五八年ころまで続き、昭和四九年秋から昭和五二年秋までの間は愛知職業病対策連絡会事務局長までしていた。原告は、このように腰痛の治療に専念していたものではなく、むしろ自己の疾病を顧みず職対連活動に熱中専念していたものである。
(三) 自動車運転のような座りきりの姿勢が腰痛によくないことは文献にも指摘されており、また、医師からも注意されているにもかかわらず、原告は職場復帰訓練のための出社の際、あるいは、職対連活動の際などにも自動車を運転していた。
そして、自動車を乗りまわしていた結果、前記1(三)(2)(ハ)のとおり、原告は三回交通事故に遭遇し、解雇後の昭和五九年七月二三日にも腰部挫傷等の受傷を伴う交通事故に遭っている。右交通事故の治療期間の長いものは二年以上に及んでいるものもある。したがって、右交通事故が、原告の疲労性腰痛に対し、その治癒を妨げ、悪化を助長したものであることは明らかである。
三 後記「原告の反論」は争う。
第四 被告の主張に対する認否及び原告の反論
一 被告の主張に対する認否
1 原告の解雇
(一) 被告の主張1のうち、(一)、(二)ないし(四)の各(1)の事実及び原告が被告主張の日に交通事故にあった事実は認め、その余は争う。
(二) 就業規則四八条一号の主張について
(1) 主張自体失当
原告が「業務に耐えない」か否かは具体的な労働との関係で判断すべきものであるところ、被告は会社内で原告を就労させる場所がないことを何ら具体的に主張していないから、就業規則四八条一号該当の主張は、主張自体失当である。
(2) 具体的・個別的判断の欠如
そもそも「業務に耐えない」か否かは、当該被災者の具体的な症状と当該職場における様々な職種との関係で、具体的・個別的な判断を必要とする。特に単なる休職等ではなく、解雇にまで及ぶ場合、解雇は労働者の生存権自体を重大な危機に陥らせるものであるから、厳格に、この具体的・個別的判断が必要とされると言うべきである。したがって、もし「業務に耐えない」との理由で解雇する以上は、一見明白な重大疾病に罹患している場合を除いて、会社内で様々な職種・労働条件等を配慮した上で被災者に就労させてみて、「業務に耐えない」ことを現実に確認することが必要であって、それをしなければ「業務に耐えない」との判断は実際には不可能であるし、恣意的なものとなってしまうのである。
しかも本件においては、現実に、被災者である原告の方から、就労申し入れを行っているのである。すなわち、原告は昭和五八年三月八日に就労申し入れを行う前から、職場復帰訓練の申し入れを行ってきたものであるが、労災給付の終止決定を受けた(同月四日)段階になったので、少々身体にきつくともフルタイムで勤務する悲壮な決意と意欲をもって、本就労を申し入れたのである。ところが、被告は、右就労申し入れを受けてから本件解雇に至るまでの間、一度も、実際に原告に様々な職種を就労させてみて、具体的・個別的に原告が「業務に耐えない」か否かを判断することもないまま、いきなり本件解雇に及んだものである。
(3) 基準の不相当性
「業務に耐えない」か否かの判断にあたって、その基準として考えられるべき「業務」は、解雇前に就労していた具体的な職種で、かつフルタイムの勤務をすることのみが基準とされるべきではない。
被告は港湾荷役作業で入港時能率的迅速にしなければならない業務などと一律に主張しているが、被告には港湾作業の現場作業だけではなく、事務その他の多種多様な業務が存在するのである。現に原告の昭和四六年七月一五日からの職場復帰のときには、当時の原告の症状を考慮の上、倉庫の入出荷の立ち会い業務に従事させているし、昭和五〇年九月一六日以降の職場復帰訓練に際しても原告にとって就労可能な職種は存在したのである。また原告以外の例としても、被告従業員である松村某は、労災事故により身体障害二級の後遺症を負いながらも、被告の職場に復帰し、現に就労しているし、被告でショベルカーの運転手として勤務して腰痛に罹患した鐘江某も、被告によって、肉体労働ではない土場担当員に配置転換されたという例も存在するのである。本件解雇時点においても、計量作業や大型クレーンの運転など、原告の症状に応じた若干の配慮を被告がする気になりさえすれば、幾らでも原告が就労可能な職種は存在したのである。
(4) 診断書の悪意に基づく「誤解」
原告の提出した診断書を根拠として、原告が身体の故障又は疾病のため業務に耐えないと判断するのは、右診断書の解釈を誤っており、これを悪意でもってねじまげているのである。
原告の主治医である竹中倭夫医師が証言したように、右診断書の記載内容の意味は、一番腰に負担のかかる「しゃがみこんで仕事をする」姿勢の作業をさせるのであれば、一五分以上は無理であり、そのような姿勢は溶接工のような特殊な職種についてはあるかもしれないが、そうでない限りは就労が可能ということなのである。
被告は、このような診断書の正確な意味・内容について、原告が再三求めても、主治医に一度も確認しようとすらしないまま、誤った理解を前提として本件解雇に及んだのである。これは、被告が誤解したというよりも、むしろこの意味・内容を悪意でねじまげて理解したとしか評しようがない。
また原告の腰痛は後遺障害一二級の一二と認定されたが、後遺障害一二級の一二は労働能力喪失割合一四パーセントであり、認定基準上「労働には通常差し支えないが、時には労働に差し支える程度の疼痛が起こるもの」とされており、労働には通常差し支えのない程度であることは明らかである。実際に本件解雇時点における原告の腰痛の自覚症状は、腰部や下肢に冷え感はあるものの日常的な動作においては腰痛はなく、腰を不自然な形で、前かがみやしゃがむという姿勢を取り、それを固定した状態で持続させて初めて腰痛を感じる程度であったのであり、実際の作業には支障がなかったのである。現に原告は、本件解雇後も配管のアルバイトという肉体労働に従事したり、職業訓練を受けたりしておるのであって、十分就労可能で、業務に耐え得たものである。
(5) 虚弱体質論の誤り
更に、被告は原告を虚弱体質などと主張するが、虚弱体質の意味自体が不明確であるばかりでなく、原告が虚弱体質であると主張すること自体、医学的根拠・裏付けを欠くものである。
被告は原告が腰痛で一六年余り療養しているのに職場復帰出来ないから虚弱体質だなどと主張するが、疲労性腰痛、頸肩腕障害などの難治性の職業病の場合においては療養が長期化するのが一般的であり、本件が並はずれて長期という訳でもなく、むしろ一般に長期化するケースについては、使用者、労働組合等周囲が右の職業病や職場復帰訓練について無理解で、「治療環境」が悪い場合が多く、本件においても被告の対応は悪意に充ちており、また全港湾労働組合をはじめとする労働組合も甚だしく無理解であったのであり、「治療環境」が劣悪であったことは明らかであって、これがある程度長期化した主要因ともいえるのである。
(6) 右(2)ないし(5)によれば、原告が就業規則四八条一号に該当しないことは明らかである。
(三) 就業規則四八条二号の主張について
(1) 就業規則四八条二号は、整理解雇を規定しているものであって、およそ本件には適用の余地がないものである。すなわち、解雇は労働者の生存権を根底から危うくするものであるから、就業規則の解釈・適用は厳格にされるべきであって、安易な拡大解釈は許されないのである。
(2) 被告は、原告が職場復帰、職場復帰訓練などの出社中、自由気ままであったと主張するが、昭和四六年七月一六日以降の職場復帰はフルタイム勤務で、通院の都合で途中外出したことがあるにすぎないし、昭和五〇年九月一六日以降の職場復帰訓練については、原告は主治医の指示に従い、各時点における自らの体調・症状に応じて、必死になって勤務・通院を継続していたのであって、このことを被告が非難するのは、訓練的就労の何たるかをまったく理解していないことを明らかにするものである。また昭和五〇年九月一六日以降の職場復帰訓練については、被告が組織的に原告に対し業務上の指示を与えない体制を敷いていたのであって、仮に原告が「自由気まま」と写ったとしても、それはこのような体制に起因するものである。
被告は、原告が被告や労働組合の注意指導を聞き入れなかったと主張するが、その注意指導なるものが、訓練的就労を正しく理解し、主治医の意見も聞いた上でされたものなのかどうかが問題であるところ、本件においてされた注意指導なるものが、悪意やまったくの無理解に基づくものであり、しかも昭和五〇年一〇月八日の全港湾労働組合名古屋埠頭分会と、被告との間の、原告の職場復帰訓練をめぐる労使交渉においては、被告も復帰の度数(時間・回数)は原告にまかせるなどという正しい対応をとっていたものが、翌五一年になって被告代表者が変更されるや、右確認がうやむやにされ、右分会長から突然朝定時より出社せよなどという「指導」に変更されてしまったのである。原告が自らの命と健康を守るため、この誤った注意指導に従わなかったのは当然のことである。むしろ原告としては、被告や全港湾労働組合名古屋埠頭分会に対して、職場復帰訓練、段階的就労を正しく理解してもらうため、各種文書を手渡し、口頭でも説明するなどの取組をしたが、被告や分会役員において、聞く耳を持たなかったというのが真相なのである。
(3) 被告は、原告が長期療養中、治療に専念していなかったなどと主張するが、そのような事実は存しない。
原告は、休業期間中、症状の悪い時期については毎日のように、いくらかよくなった時期でも週一回程度は通院して、主治医や名南病院の専門チームによる理学療法、注射、投薬、運動療法などの治療を受け、これに加えてはり・灸、マッサージの治療も受けていたし、又職場復帰や職場復帰訓練中も主治医の指示に従って、通院して右治療を受けていたものである。
また被告は、原告の自動車運転について非難するが、腰痛患者にとって長時間同一の姿勢の保持を避けねばならないだけで、自動車運転そのものは医学上の禁忌ではなく、原告は主治医の指示を順守した上で、自動車を運転したもので、現に自動車運転が原因で腰痛が悪化したこともないし、被告主張の交通事故の受傷箇所はいずれも頸部であって腰痛とは全く関係がない。
また、原告が被告の承認を得ずに職対連の活動に奔走したなどという被告の主張も理由がない。被災者が自らの健康を守ろうとして自主的に参集した運動体に参加し、活動すること自体は、雇用関係と無関係であって、使用者の承認を必要としないし、職対連の運動については医療機関も参加し、主治医からも、会議中の休憩や体操などの細かい指示も与えられ、職業病の被災者として無理のないような運動であり、原告も右指示に従っておったのであって、これを理由として「治療に専念していなかった」ということは断じてないのである。
(4) 被告は、他の従業員も原告に対し不信感を抱いており、信頼関係が失われているなどと主張するが、そのような事実は存在しないし、またそもそも使用者と労働者との間の雇用関係をめぐる解雇の有効性を論じるにあたって、当該労働者と他の労働者との関係が何故に影響を及ぼすのかが不明である。また、仮に原告と他の従業員との信頼関係が失われていたとしても、その主たる原因は、原告の昭和五〇年九月一六日以降の職場復帰訓練に当たっても、組織ぐるみで職場復帰訓練自体をあくまで否定し、原告に対し業務上の指示を与えないようにし、原告が自らの判断で仕事を探さざるをえないようにさせた被告の対応にあると考えられるのである。他の従業員との関係で「村八分」になれば労働者を解雇出来るかのごとき被告の主張は、それ自体失当であるが、本件では更に被告がいわば「村八分」の状態を作出しつつ、そのことを理由に解雇するというものであるから、二重の意味で失当なのである。
(5) 被告は原告の雇用を継続させると他の労働者の勤労意欲を低下させ、円満な労使関係の秩序や統制を乱し、生産性を低下させるなどという被告の主張については、全く理由がない。
被告の右主張が、具体的には、同僚である他の労働者が、休業や職場復帰訓練中の原告の賃金保証について、「働かなくても賃金がもらえるのならよい」という意見を抱いたことを指しているのだとしたら、そのような労働者の意見自体が、労災補償制度や職場復帰訓練に対する無知・無理解によって、誤っているのであり、原告を解雇して解決するようなことではなく、労災補償制度や職場復帰訓練について従業員教育をして、その認識を正すべき事柄である。
(6) 右(2)ないし(5)によれば、原告が就業規則四八条二号に該当しないことは明らかである。
(四) 就業規則四八条三号に関する被告の主張は、抽象的で、本件が同条一号及び二号に該当しないとして、いかなる点がそれらに準ずるものであるかについての具体的主張がないから、右主張が理由ないこと明らかである。
2 被告の主張2ないし5はいずれも争う。
二 原告の反論
原告が、仮に、被告主張のように、業務に耐えない状態であったとしたら、到底治癒したとはいえず、そのような原告に対し、労働基準法(以下「労基法」という。)八一条の打ち切り補償も行わないまま本件解雇をしたのは、労基法一九条一項に違反し無効である。以下、詳述する。
1 原告は、昭和五八年三月四日、名古屋南労働基準監督署長から、症状が固定したとして、突然、療養補償給付の終止決定を受けた。
右決定は、いわゆる三七五通達(労働省労働基準局長通達「労災保険における『はり・きゅう及びマッサージ』の施術に係る保険給付の取扱いについて」昭和五七年五月三一日基発第三七五号。)及びこれを受けた同日付事務連絡第三〇号(労働省労働基準局補償課長「労災保険における『はり・きゅう及びマッサージ』の施術に係る保険給付の取扱いの運用上の留意事項について」)(右通達等の内容は、はり、灸等の治療を受けながら長期の療養生活を送っている難治性の腰痛、頸肩腕等の被災者について、一定期間の経過により、たとえ慢性的な症状が持続していたとしても、「症状固定」したとして治癒と認め、療養補償給付を打ち切るというものである。)による、長期療養被災者の一斉打ち切りの一環としてされたもので、原告に対する個別的な症状を前提とした症状固定の判断を抜きにしたものである。
労基法は我が国の個別的労働関係の基本法であり、労働条件の最低の基準を定めているものであるから、その判断にあたっては、労災保険行政の転換などという事情によって、労働者に不利益に解釈を変更することは許されるべきではなく、終止決定がされたからといって、当然に解雇制限がはずれるものではない。
2 原告は、このような労災保険行政の転換がなければ、当然継続して療養補償給付の支給を受けていたような症状で、到底「症状固定」「治癒」と認められるような状態ではなかった。
なお、原告が右終止決定に対して審査請求等をしなかったのは、当時既に被告に対して職場復帰訓練の申し入れを再三行っていた時期であって、右のような症状にした被告に就労して労働能力を回復させる方法を戦術的に選択したにすぎず、右終止決定に不服がなかったとか、治癒を自認したことに結びつくものではないのである。
第五 証拠<省略>
理由
第一 地位確認等の請求について
一 原告が昭和三六年二月六日被告に雇用されたこと。被告が原告に対し、昭和五九年二月二六日到達の内容証明郵便で、就業規則四八条各号に該当するものとして、原告を同年三月三一日付で解雇する旨の意思表示をした(本件解雇)こと、就業規則四八条各号には、被告主張の定めがあることは当事者間に争いがない。
二 そこで、本件解雇の効力について判断する。
1 被告は、原告の本件解雇当時の症状が、身体の故障または疾病のため業務に耐えないものにあたるとして、まず就業規則四八条一号に基づいて解雇したと主張する。
思うに、同号の「業務」とは、雇用契約で従業員の職種が限定されている場合でも、その業務のみならず、使用者が契約上従業員に就労を命じうることが可能な業務を含むと解すべきであるが、従業員の疾病の内容・特質、罹患後の長さ、復職後の就労状況などに照らし、従業員が解雇当時、右就労可能な業務についたとしても、最終的に当初の限定された職種に復帰することが困難であることが高度の蓋然性をもって予測できるときは、その解雇は合理的なものとして有効といわざるを得ない。
そこで、原告が、被告に入社以後、本件解雇に至るまでの経緯について概観する。
2 <証拠>によれば、次の事実が認められる。
(一) 被告の概要
被告は、昭和二五年、埠頭業、港湾運送事業、それに関連する事業を営む目的で設立された株式会社で、具体的には名古屋港に接岸した船から石炭、鉱石類などのいわゆるバラ貨物を荷揚げして貯炭場に保管し、それを出荷することを主たる業務とするもので、そのため大型・小型各クレーン、ショベルカーを保有している。
(二) 原告の業務内容
(1) 原告は、昭和三六年二月六日、クレーン運転手として雇用され、同日から昭和四一年二月末日まで大型クレーンの運転業務に従事した。大型クレーンは、水平引込みクレーンと呼ばれるもので、港の岸壁近くに据付けられていて、地上一〇数メートルの高さに設けられた四角い運転室から船内を見おろす姿勢で、三本のレバー(うち一本は常時使用しない。)と一つのペダルを使用してクレーンを操作していた。
(2) 原告は、昭和四一年三月一日から小型クレーンの運転業務に従事するようになった。小型クレーンの作業は、バラ貨物(主に石炭)を船からトラックに積む「荷揚げ」、トラックが運んできたものを船に積む「船おろし」、トラックが貯炭場に運んできたものを更に円錐状に積み上げて整理する「まくり」などであった。
原告は、被告が保有していた小型クレーンのうち、移動式の本件クレーンを運転した。本件クレーンを運転する際には、右手でバケットの上下用と開閉用の二本のレバーを、左手でクレーンを回転させるためのレバーを操作し、左右の足でバケットの支持及び開閉用の各ブレーキを操作するもので、腰掛け姿勢とはいっても、バケットが自重で下がらないようにするため、左右両側のペダルの上に常時両足を乗せていなければならず、その姿勢で上肢、下肢を同時または交互に動かす動作を一時間に一五〇ないし二〇〇回も繰り返すもので、大型クレーンの操作と特徴的に異なるのは、両足が、右のとおり、常時浮き足状態にあるため、運転手の体重を腰や背中で支えるような不安定な姿勢を強いられる点であった。
(三) 原告の腰痛等
(1) 原告は、本件クレーンの運転をはじめて半年位からふくらはぎがかなり張り、両肩特に右肩が凝るようになった。そして、昭和四二年三月末ころになると、更に腰部に鈍痛を自覚するようになったため、同年四月三日、医療生活協同組合みなと診療所(以下「みなと診療所」という。)で受診し、通院したところ、夏ころには右症状は消失した。しかし、秋になって「まくり」作業等をすると肩が痛く、頸が凝り、腰痛も再発したため、みなと診療所に再び受診し、投薬、注射、湿布、赤外線治療を受け、同年九月下旬からは、はり、灸、マッサージ治療も受けるようになった。そして、同年一二月に入ると、本件クレーンの運転中も、腰、肩、頸の痛みが強く、その痛みのため睡眠時間も充分にとれない状態が続いたため、医師と相談のうえ、昭和四三年一月三一日から腰痛症を理由に休業した。
なお、原告は、みなと診療所のほか、昭和四二年八月二八日から同年九月八日まで国立名古屋病院で本態性高血圧症の入院治療を、昭和四三年三月四日から同月七日まで臨港病院で筋々性腰痛の治療を受け、同月一二日から同月二三日まで国家公務員共済組合名城病院に入院し、腰痛症に関する諸検査を受けたが、その検査結果によれば脊椎の変形はなく運動性は良好で腰椎仙椎化を認める以外特に異常所見はなく、また先天性奇形、感染性による炎症々状もなく、原告の腰痛は筋緊張及び筋疲労によるものであることが認められた(以上を「第一次腰痛症」という。)。
(2) 原告は、右腰痛が当時私病扱いであったため、全快はしていなかったものの、昭和四三年六月八日から原職のクレーン職場に復帰し通常勤務をする(夜間に通院していた。)一方、同年七月初旬に右腰痛症は業務上災害であるとして名古屋南労働基準監督署長(以下「南労基署長」という。)に対し療養補償給付の請求をした。同署長は同年一〇月二三日付で本件は業務上の事由による傷病でないとして不支給処分をし、更に愛知労働者災害補償保険審査官も昭和四五年三月一六日付で原告の審査請求を棄却した。しかし、労働保険審査会は昭和四七年一一月二日付で右腰痛症につき業務起因性を認めたうえ南労基署長の前記不支給処分を取り消した。
(3) 原告は、昭和四四年一月三一日、ボーキサイトのトラック積み作業をしていたところ、本件クレーンのアウトリガー(クレーンの転倒防止用ジャッキ)のねじを締める際、足元にこぼれていたボーキサイト(豆粒状ですべりやすいもの)で滑り、はずみで腰部を打撲し(以下「アウトリガー事故」という。)、災害性腰痛症に罹患した(以下「第二次腰痛症」という。)。この腰痛症は、同年三月一〇日付で南労基署長から業務起因性の認定を受けた。
(四) 昭和四四年二月一日から昭和四六年七月一五日まで
(1) 原告は、アウトリガー事故後、名南外科診療所(現在の名南外科病院、以下「名南病院」という。)で受診し、災害性腰痛症により昭和四四年二月一日から一か月間の休業・通院を要する旨の診断を受け、同日から昭和四六年七月一五日まで診断書の更新を続けながら休業した。
(2) 原告は、その間、当初は鎮痛消炎剤の注射・投薬及び理学療法(局所赤外線照射等)を受け、次第に運動療法に切り換え、はり、灸、マッサージも医師の指示により受けていたところ、アウトリガー事故による腰痛の急性症状は右の間に軽快した。その他の休業期間中の症状としては読書すると目が痛くなったり、頸、肩の凝り、背中のうずき、腰部の痛み、臀部の冷え、足の筋肉の痛み、冷気に敏感に反応する等の全身的な症状が発現していた。
(五) 昭和四六年七月一六日から昭和四八年二月二〇日まで
(1) 原告は、名南病院竹中倭夫医師(主治医、以下「竹中医師」という。)より、昭和四六年七月一六日から軽作業による就業可能、但し、引き続き通院は必要である旨の診断を受けて、同日から被告に出社した。
(2) 被告は、軽作業可能という診断に基づき、袋入貨物を保管している倉庫の入・出荷時の立会勤務を命じ、原告は昭和四八年二月二〇日まで同業務に従事した。同業務は通常の勤務時間体制であったが、通院は毎日あるいは週一、二回の割合で、勤務時間内に行くこともあった。
(六) 昭和四八年二月二一日から昭和五〇年九月一五日まで
(1) 竹中医師は、昭和四八年以降原告の腰痛を慢性・疲労性腰痛症と診断し、寒冷時には体調が悪くなること、前記のとおり第一次腰痛症が業務上災害と認定されたこと、原告から背中や腰の痛みを訴えられたことから、昭和四八年二月二一日から休業・通院を要する旨の診断をし、原告はこれを受けて同日から昭和五〇年九月一五日まで休業した。原告は、その間、週一ないし三回の割合で通院し、従前とほぼ同内容の治療を受けていたが、理学療法の対象域が広がり、運動療法、体操療法が積極的にとり入れられた。
(2) 原告は、竹中医師から昭和五〇年三月三一日付で、「一日二時間、週二回の軽作業就業してよい」旨の診断を受け、同年四月ころ、被告に対し、職場復帰訓練の申し入れをした。
被告は、右申し入れを検討するため原告と話合いの機会を持ち、週二回とは何時のことか、一日二時間とはどの時間帯なのか等を尋ねたが、原告はその点を明確にすることを避けた。そのため、被告は、作業課長須貝和夫、森川金一を名南病院に派遣し、原告の症状、診断書の内容の詳細について竹中医師の説明を求めようとしたが、同医師の都合で会えず、職対連の岩川、高島某から職場復帰訓練の必要性等の抽象的な話をきかされただけで肝心な点は明らかにならなかった(被告は、右以降本件解雇に至るまで原告の症状等について、名南病院に照会することはなかった。)ため、原告の申し入れを認めなかった。
(七) 昭和五〇年九月一六日から昭和五四年七月一一日まで
(1) 原告は、被告の株主である名古屋市や南労基署などに職場復帰訓練ができるよう働きかけ、ようやく昭和五〇年九月一六日から、南労基署の指示に基づき、タイムカードに打刻できるようになったが、被告としては原告の作業能力が不明確である等として、原告に対し、業務(仕事)の指示は一切しなかった。そのため、原告は、自らの判断で、出勤訓練等を経てから、主に石川敬重がしていた倉庫管理業務の手伝いをしながら、腰痛症の通院治療を受けていた。しかし、原告は、昭和五二年一二月一五日交通事故により外傷性頸部症候群の傷害を負い、同日から昭和五三年二月一八日まで休業した。
(2) 原告は、昭和五三年二月二〇日から再び出社するようになったが、右(1)の期間中、出退社のタイムカードの打刻はあっても、その間の外出時間が不明であったため、被告の要請に基づき、外出する際は外出簿に記帳することになった。原告は、同日以降、石川敬重が退職する同年三月末日ころまでは、同人の倉庫管理業務を手伝ったが、右以降は、被告が倉庫の施錠をし、原告の右仕事を事実上奪う挙に出たため、アウトリガーの取りはずし等のクレーン運転の周辺作業に従事していた。なお、外出簿に基づく、原告の昭和五三年三月二一日から昭和五四年七月一一日までの原告の在社時間は別紙集計表のとおりで、外出先は主に通院先である名南病院であった。
(八) 昭和五四年七月一二日から昭和五八年三月一〇日まで
(1) 原告は、昭和五四年六月一四日ころ、作業課長高橋昭一からアウトリガーの取りはずし等の所為はやめて欲しい旨の注意を受けた。これは、クレーン運転者仲間から、アウトリガーは三四キログラムもあるため、腰痛症の患者が取り扱うのは危険であり、症状が悪化する虞れがあるから、原告と話合いをしてもらいたい旨の要望が出たためであった。また、原告は、そのころ、原告の所属する全港湾労働組合名古屋埠頭分会の役員からも、出勤後の通院は被告も認めているのであるから少くとも朝の定時出勤(午前八時三〇分)は守れないか、それが守れないなら自宅療養すべきである旨の勧告を受けた。原告は、これらの注意、勧告により精神的に動揺し、竹中医師とも相談のうえ、昭和五四年七月九日(月曜日)から事実上休業し、同月一二日からは同医師の休業・通院を要する旨の診断に基づき休業するようになった。
原告は、右休業期間中、鎮痛・消炎剤等の投薬、赤外線照射による理学療法を名南病院で受け、また、はり、灸、マッサージ治療も受けていたが、その通院回数も当初は毎日のようであったが、次第に減り、二週間に一度位の割合になり、通院回数が減るとともに、プールで泳いだり、ジョギングをする等のリハビリ的訓練が増えていった。
(2) 原告は、昭和五七年四月ころ作業部長須貝和夫に口頭で職場復帰訓練の申し入れをしたが、埓があかなかったため、同年六月七日、被告代表者宛に職場復帰訓練前就労の申し入れ及び同月一一日からそのために出社する旨の内容証明郵便を郵送した。被告は、これに対し、須貝和夫を窓口として、原告と交渉するようになったが、文書による意見交換を提案したところ、原告もこれを了承したため、文書により以下のやりとりがされた。
被告は、原告の右申し入れを検討するには、原告の症状、健康状態の把握が必要であるとして、その問い合わせを主とし、他方、原告は、これに対し、昭和五七年六月一一日から同年七月一〇日まで通院を要するが職場復帰訓練を許可する旨の竹中医師作成の診断書(同年六月一一日付)を提出し、それで足りない分は同医師に問い合わせて欲しい旨、あるいは、主治医の診断書のとおり職場復帰できる状態である旨の回答をしたほかは自らの症状を具体的に明らかにすることはしなかった。また、被告は、職場復帰訓練「前」就労の意味を理解しなければ適合した職場に原告を配置することは困難であるとして、それに関するやりとりも複数回にわたってされた。
(3) 原・被告間で右(2)のやりとりをしていたところ、原告は、南労基署長から、災害性腰痛症による療養補償給付を昭和五八年三月一〇日をもって終止する旨の同月四日付決定通知書を受け取った。原告は、右終止決定には不服があったものの、竹中医師と相談のうえ、敢えてこれを争うことはせずに、障害補償給付の申請をするとともに、同月八日、被告に対し、同月一一日から出勤する旨の申し入れをし、併せて直接の交渉相手であった須貝和夫にも職場復帰訓練前就労の申し入れを終了する旨の宣言をした。
被告は、原告の右申し入れがこれまでのそれとは全く異なる申し入れであったため、同月一〇日、社内で検討を要するとして、その結論が出るまで、原告に自宅待機を命じた。
(九) 昭和五八年三月一一日から本件解雇に至るまで
(1) 原告は、昭和五八年三月一一日、自宅待機命令中であったが被告に出社し、須貝和夫と今後のことについて質疑を交した。須貝和夫は文書による意見交換を主張したが、原告がこれを拒否したほか、自らの健康状態については説明しなかった。被告は、その後も、原告の症状について書面で照会をしていたところ、原告は、同年七月一八日に至り、前記療養給付支給の終止決定書、竹中医師作成の昭和五八年四月一六日付診断書(「障害の状態の詳細」欄には被告の主張1(二)(2)(ロ)の記載があったが「療養の内容及び経過」欄は空白であった。以下「本件診断書」という。)、障害補償給付支給請求書の各写しを添付し、それらで不明な点は南労基署長、名南病院長に問い合わせて欲しいこと、原告の出勤申し入れについて鋭意検討して欲しい旨記載した内容証明郵便を被告に郵送した。
(2) 被告は、原告に対し、昭和五八年八月二七日付で、右診断書、「就業すると病気の悪化するおそれのあるものは就業させない」旨の就業規則五五条等を勘案した結果として、原告からの出勤申し入れには応じられない旨の回答をした。また、原告は、南労基署長から、昭和五八年八月一九日付で、労働災害後遺障害等級一二級一二号に該当するとの認定を受けた。
(3) 被告は、右のような状況の中で、原告を何時までも自宅待機させておくわけにもいかず原告の処遇について根本的な対応を迫られることになり、昭和五八年一一月一五日、全港湾労働組合名古屋埠頭分会及び名古屋埠頭従業員組合の代表者出席の下にその協議を行い、更に翌五九年一月一四日にも同様の協議を行ったところ、労働組合側は、被告が原告を就業規則四八条で解雇することについて特に意見はない旨の結論を出した。
また、被告は、昭和五九年三月一〇日、職場責任者会議を開き原告の処遇を検討したところ、例えば、小型クレーン、ショベルカーを扱う部門責任者からは、同職場では軽作業はなく原告の面倒はみきれない等の意見が出され、原告の解雇について特に意見はないということになった。
(4) 被告は原告に対し、昭和五九年二月二六日到達の書面で、原告が就業規則四八条各号に該当するとして、同年三月三一日付で原告を解雇する旨の意思表示をした。
(一〇) 本件解雇当時・前後の原告の症状及びクレーン職場の概況
(1) 原告は、昭和五七年一一月一五日交通事故により頸椎打撲の傷害を受け、昭和五七年一一月五日から昭和五八年一二月二三日まで(実通院数一七七日)名南病院に、昭和五七年一二月三日から昭和五八年八月二〇日まで(同一七日)名古屋厚生館に、同月三一日から同年一二月一〇日まで(同一五日)みずの治療院に、同年六月七日から同年一二月二一日まで(同一四日)佐野眼科にそれぞれ通院加療し、昭和五九年五月二三日ころ後遺障害一一級一号(両眼の眼球に著しい調節機能障害又は運動障害を残すもの)の認定を受けた。
(2) 南労基署長は、原告の腰痛症の症状が固定し、治療効果がこれ以上期待できないとして昭和五八年三月一〇日限り原告の療養補償給付の支給を終止する旨の決定をした。
竹中医師は、原告の右当時の症状について、背腰部、両下肢に筋硬結を認め、重圧感、凝り感、冷えが著明で、脊柱起立筋に圧痛があり、背腰筋及び腹筋群の筋力低下などが認められるとし、結論として、一五分位しゃがんで仕事をすると腰、両臀部が痛くなり、雨天時、夜背腰、臀部にうずく痛みがある、と診断した。
竹中医師は、右診断につき、「一五分位しゃがんで仕事をする」とは、腰にかなり負担のかかる姿勢をさし、例えば溶接工あたりの仕事を念頭においているものであって、そうでない仕事であれば就労は可能であると証言しているが、他方、クレーン運転についてはそれが長時間にわたらないこと、作業密度が薄ければ就労可能であるとし、原告の症状については一般的に長時間の作業、単一ないし同一の単純な反復作業は避けるべきであるとも証言している。
(3) 原告の本件解雇当時の自覚症状としては、腰部や下肢に冷え感はあるものの日常的な動作には特に支障はなく、ただ前かがみの姿勢を一五ないし二〇分持続すると背中が突張り、痛むことがあり、また、じっとしゃがみ込んだ姿勢をすると腰痛を感じるということであった。
(4) クレーン職場の概況
被告は、埠頭業を営むため、大型クレーン、小型クレーンを保有しているが、本件クレーンは昭和三四年五月に、小型クレーン七号機(石川島コーリング株式会社製でブースターを装備した本件クレーンの改良機)は昭和三五年七月に、同八号機(住友機械工業株式会社製で操作は油圧でできるため、レバー等の操作は前二機よりかなり改良されたもの)は昭和四三年八月にそれぞれ購入されたもので、前二機は昭和四九年八月ごろまでに廃車となった。また、クレーン業務の多くは、貨物船の入出港の時間と関係するため、能率的迅速な処理を求められる職場であった。
以上の事実が認められ、<証拠>の記載部分は採用し難く、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
3 原告の原職復帰の可能性について
(一) 竹中医師は、原告は本件解雇当時溶接工の職種を除いては、その作業が長時間にわたらず、単一ないし同一の単純な反復作業でなければ就労可能であると証言し、昭和五九年七月二四日付意見書(<証拠>)では「労働不能の状況ではなく、段階的就労を行えば(原告の)原職復帰は可能である」とし、原告も、倉庫の入出荷の立会業務、自動車に積載したバラ貨物の計量作業、また、大型クレーンの運転業務さえ作業時間の配慮があれば就労可能であると供述(第一回)している。
(二) 原告の本件解雇当時の症状によれば、少くとも原告が供述する倉庫立会業務、計量作業等に従事することは一応可能であると思われるので、右当時、それらの業務についたとしても、最終的に原告の原職であるクレーン運転業務に復帰することが可能であったかについて更に検討する。
(1) 前記2認定事実によれば、原告が腰痛を自覚した昭和四二年三月末ころから本件解雇時までの一七年間のうち、休業したのは、昭和四三年一月三一日から同年六月七日まで、昭和四四年二月一日から昭和四六年七月一五日まで、昭和四八年二月二一日から昭和五〇年九月一五日まで、昭和五二年一二月一五日から昭和五三年二月一八日まで、昭和五四年七月九日から昭和五八年三月一〇日までで、同日以降は自宅待機を命ぜられていた。そして、原告が仕事に従事していた期間及びその職種は、<1>昭和四二年三月末ころから昭和四三年一月三〇日まで本件クレーンの運転業務(本来の業務)を、<2>昭和四三年六月八日から昭和四四年一月三一日まで本件クレーンの運転業務(右同)を、<3>昭和四六年七月一六日から昭和四八年二月二〇日まで貨物倉庫の入出荷立会業務(被告の業務指示によるもの)を、<4>昭和五〇年九月一六日から昭和五二年一二月一四日まで倉庫管理業務の手伝い等(この間、被告の業務指示はない)を、<5>昭和五三年二月二〇日から昭和五四年七月七日まで倉庫管理業務の手伝い及びクレーン運転の周辺業務(右同)を、それぞれしていた。
右休業及び就業期間中、原告は腹痛の顕著なときは鎮痛用の注射を受けていたものの、他は投薬、局所に対する赤外線照射等の理学療法、はり、灸、マッサージ、運動療法、体操療法等が中心であって、症状が固定した昭和五八年三月一〇日まで特に根治的な療法のないまま推移したものである。そして、<3>以降の期間については勤務中の通院を被告は黙認していたもので、特に<4>以降の出退社の時刻については事実上原告の自由にまかされており、昭和五三年三月二一日から昭和五四年七月一一日までの原告の一か月当たりの出社日数は一四・六日、外出時間は二〇・四時間、在社時間は六一・一八時間で、一日あたりの平均在社時間は四・一時間であった。
(2) まず、大型クレーンの運転業務についてみるに、大型クレーンは高所に運転台があり、荷揚げ、船おろし作業をするにあたっては必然的に下方の足下を見おろすため、前かがみの姿勢にならざるを得ず、それに加えて、作業中狭い運転台で座り放しの姿勢でいるため当然腰部に負担をかけるものであること、右作業は貨物船の入港時には能率的・迅速な処理が要求されるため、比較的短時間の交代も困難であること、原告が腰痛を自覚してから本件解雇まで一七年を経過し、その間の休業、就労状況及び治療経過は右(1)のとおりで腰痛の急性症状が出たときは別として、それが軽快・消失したあとの原告の症状と本件解雇時の原告の症状との間で著明な改善があったとまでは認め難く、むしろ原告の被告との対応による精神的負荷によって増幅された慢性疲労の蓄積により原告の腰痛症は難治性のものとなり、原告が前記就労可能な業務についたとしても、結局は、前記作業の特質をもつ大型クレーン運転の通常勤務に復帰し、安定的な労務を提供することは将来にわたっても困難であったといわざるを得ない。そして、小型クレーンの運転業務についても、現在稼働中の小型クレーンが本件クレーンに比較して性能がよくなっているものの、中核的作業の本質はかわっていないと考えられ、その作業実態に照らすと、大型クレーン運転の場合よりも強い理由で、その運転業務に最終的に復帰することは困難である。
4 右1ないし3によれば、原告は、本件解雇当時、就業規則四八条一号に該当するものというべきである。
なお、「業務に耐えない」か否かを判断するに当たっては、原告の主張するように、原告を被告内に存在する様々な職種につかせたうえ、その個別的・具体的な判断を経なければならないかどうかについてみるに、使用者としては、いわゆる五九三通達(労働省労働基準局長通達「頭頸部外傷症候群等の労働災害被害者に対する特別対策の実施について」昭和四八年一一月五日基発第五九三号、これは<証拠>により認められる)の趣旨に則り、被災労働者の症状または後遺症の状況に応じて、療養期間中の傷病者については段階的就労の機会を与え、治癒後の傷病者については職場復帰の困難な事情を解消するよう努め、被災労働者の職場復帰のための措置を講じ、そのうえで「業務に耐えない」かどうかを判断するのが望ましいことではあるが、右通達は労災補償制度の適正な運営に資するため行政機関が行うべき行政指導の施策を定めたものであって、使用者と労働者の関係を直接に拘束する性質のものではなく、これを被告の義務として要求することはできず、また、右措置をとらなければ前記判断ができないというものでもないから、原告の右主張は採用することができない。
5 原告の労基法一九条一項違反の主張について
(一) 労基法一九条一項は、労働者が業務上負傷した場合、療養のために休業する期間及びその後三〇日間は、事由の如何を問わずに解雇を禁止している。右規定の趣旨は、業務上の負傷による療養のための休業期間という再就職困難期において失職することにより労働者の生活が脅かされることのないよう、再就職の可能性が回復するまでの間、解雇を一般的に禁止して労働者を保護することにあるものと解される。そうすると、症状固定の状態(治療を継続しても医療効果がこれ以上期待できない状態)になれば、再就職の困難さという点についてもそれ以上の改善の見込みが失われるのであるから、症状固定時以降は、再就職可能性の回復を期待して解雇を一般的に禁止すべき理由はなくなるものといわなければならない。なるほど症状固定時以降も症状は残存しているのであり、対症療法としての療養が必要な場合はあるけれども、それは、労働能力の低下として評価すれば足り、このような場合には障害補償の対象となることにより救済されるのであって(労基法七七条、労働者災害補償保険法一二条の八など)、業務上の災害によって労働能力が低下し、再就職が困難になったからといって前記規定により解雇を一般的に禁止すべき理由はない。したがって、業務上の災害によって受傷した場合においても症状固定時以降は労基法一九条一項による解雇制限は適用されないと解すべきである。
(二) 原告は、前記のとおり、本件解雇時には症状固定の状態にあったと認められるから、労基法一九条一項の適用はなく、本件解雇が同規定に違反するとする原告の主張は失当である。
三 以上の次第で、本件解雇は就業規則上有効であり、これを無効とすべき事由は認められないことに帰するので、原・被告間の労働契約は昭和五八年三月三一日限り終了したもので、右労働契約の存続を前提とする原告の地位確認及び賃金の支払請求はいずれも理由がなく、これらを棄却することとする。
第二 損害賠償請求について
一 原告の第一次及び第二次腰痛症がいずれも行政当局により業務に起因するものと認定されたことは前記認定のとおりで、本件記録中には右認定判断を動かすに足りる証拠は存しないので、右発症について被告に責任が存するかについて、まず判断する。
二 被告の責任
1 原告が被告に昭和三六年二月六日クレーン運転手として雇用されたこと、原告の業務内容、本件クレーンの作業実態並びに第一次及び第二次腰痛症発症の経緯については前に詳述したとおりである。
2 <証拠>によれば、次の事実が認められる。
(一) 被告における小型クレーンの導入について
被告は、昭和三四年ころまで大型クレーン三基及びショベルカーを保有して埠頭業の業務取扱い量をこなしていたが、入港する小型船舶が増え、入出荷するバラ貨物の数量が増加したため、小型クレーンの導入を計画した。そして、導入にあたり、数社のメーカーの機種を比較検討し、肉体的な疲労度が少く運転し易いものとして本件クレーンを昭和三四年五月に選定購入したもので、当時の水準としては人間工学上の観点も考慮された新鋭機であった。その後、昭和三五年七月に小型クレーン七号機が、昭和四三年八月には同八号機が被告に導入されたことは前記のとおりである。
(二) 本件クレーンの作業体制及び作業取扱量等について
原告は、昭和四一年三月から本件クレーンに乗務したが、当時の作業体制は、本件クレーン一台につき二名が担当し、約二時間で交代する体制を採用していた。そして、本件クレーンの昭和三七年から昭和四二年までの取扱作業量は、その作業日報によると、請求原因二5(二)(3)のとおりであるほか、本件クレーンの平均実働時間は、昭和三七年が四時間二九分、昭和三八年が四時間一五分、昭和三九年が四時間三〇分、昭和四〇年が四時間一二分、昭和四一年が四時間三分、昭和四二年が四時間九分であった。
(三) 小型クレーン運転手の腰痛発生状況
高橋昭一運転手は、昭和三四年五月から小型クレーンの乗務を開始し、同年一〇月ころには腰痛を自覚し、その治療のため約四年間は整形外科、はり、マッサージに通い、昭和四三年四月時点でも全治していなかった。遠藤清助運転手は昭和三七年四月ころから小型クレーンの乗務を開始し、昭和四〇年二月ころ腰痛を自覚し、一年位その痛みが続いた。野村松夫運転手は、昭和三八年二月ころ小型クレーンの乗務を開始し、昭和四一年ころ腰痛を自覚したが昭和四三年四月時点では全快していなかった。石田明慶運転手は昭和四〇年ころ小型クレーンの乗務を開始し、ある時期から腰痛を自覚したが、腰痛の増悪を恐れ、昭和四五年九月三〇日に被告を退社した。別府正成運転手は、昭和三五年七月ころ小型クレーンの乗務を開始し、昭和四三年二月ころ腰痛を自覚し、昭和四四年一二月三〇日には、石田明慶と同じ理由で被告を退社した。
(四) 腰痛症に対する労働組合の取り組み方
(1) 全港湾労働組合名古屋支部は、昭和二八年ころから港湾労働者の腰痛に関心をもち、同組合中央執行委員会は昭和三八年に腰痛症の問題を総評に持ち込み組織的調査を進め、腰痛症対策委員会が設けられた。右名古屋支部も、昭和四〇年秋には腰痛症の調査活動を進めつつ愛知県労働基準局と三回の交渉を重ね、昭和四三年の春闘では、名古屋港湾関係労働組合協議会は統一要求として「腰痛症を職業病と認めよ」との要求を掲げて各会社と交渉するに至った。
(2) 全港湾労働組合名古屋埠頭分会は、昭和四〇年ころ、小型クレーン及びショベルカーの運転者が腰痛を訴えたため、被告に対し、これを職業病と認めるよう要求し、その結果、被告は、小型クレーンの座席にスポンジクッションの座布団を取り付けたり、運転席を運転手の身長や体格にあわせて調節できるよう調整用の穴の数を増加させる等の措置をとった。また、昭和四三年二月の名古屋埠頭安全委員会(被告代表者委員も含む)で腰痛症の問題が話し合われ、同年五月には全港湾労働組合名古屋支部は被告に対し、腰痛症多発職場の労働者全員を費用全額被告負担で入院検査を行うこと等を内容とする腰痛症に関する補償要求をした。
3 使用者は、労働者を雇用して自らの管理下に置き、その労働力を利用して企業活動を行っているものであるから、その過程において労働者の生命、身体、健康が損われることのないよう安全を確保するための措置を講ずべき安全配慮義務を負っているところ、本件では、原告が従事した本件クレーンの運転は、運転手に対し常時両足を浮足状態にして体重を腰や背中で支えるような不安定な姿勢を強いるもので、しかも、被告は右クレーンを含む小型クレーンの運転手が腰痛を訴えていたことを、遅くとも、昭和四〇年ころには知っていたのであるから、被告としては、原告に右のような作業を命ずる場合には、職業性及び災害性の腰痛症の発生を防止するため、右のような運転姿勢が避けられないなら、その作業取扱量、作業時間、作業密度等の労働条件に思いを致し、腰痛症の発症要因の除去、軽減に努め、更には、腰背部に負担がかからないように、本件クレーンの改良等に努めるべき業務があり、また、腰痛症に罹患し、職場復帰した原告に対し、その病勢が増悪することのないように措置すべき業務があったといわざるを得ない。
しかるに、前記認定事実によれば、原告が本件クレーンに乗機するようになった昭和四一年三月以降、本件クレーンの一日当たりの取扱屯数及び一時間当たりの取扱屯数は昭和三七年のそれらと比較すると相当増加している反面、本件クレーンの両時期における実働時間は短縮され、その分、労働密度が高くなり、労働強化がはかられているのであるから、被告には右腰痛症の発症要因の除去、軽減に努めるべき義務を怠った債務不履行により原告に第一次腰痛症を発症させたといわざるを得ない。なお、被告がした小型クレーンの改良措置は十分なものでなく、原告の腰痛症発症の防止には役立たなかった。また、第二次腰痛症についても、被告は第一次腰痛症を私病扱いにし、療養中であった原告の職場復帰にあたって、原告の腰痛症状にあわせた内容の業務を与えず、業務量について適切な軽減措置をとらないまま、原職にフルタイムの作業をさせたもので、その労働負担が直接アウトリガー事故を招来したとはいえないけれども、少くとも腰痛症の病勢悪化をもたらしたことは否定することができず、この点においても被告は債務不履行責任を免れることはできない。
三 次に、原告主張の損害について判断する。
1 被告は、原告の腰痛症が長期化し、後遺障害を残すに至った主因は、<1>原告が多数の私傷病に罹患していること、<2>原告が職対連の活動に従事し、腰痛の治療に専念していなかったこと、<3>原告が腰痛にとって禁忌である自動車運転をし、剰え自動車事故に遭遇していることにあると主張する。
<証拠>によれば、原告は昭和三八年から昭和五九年にかけて、被告の主張1(二)(2)(ホ)の傷病名で治療を受けていることが認められるが、その多くは交通事故による傷病であり、右傷病は<証拠>によれば、原告の腰痛症と直接結びつくものではなく、その余の疾病についても、それらが原告の腰痛症の発症又は長期化に影響を及ぼしたことを認めるに足りる証拠はない。
<証拠>によれば、原告が被告の主張5(二)の職対連の活動に従事していたことが認められるが、他方、<証拠>によれば、職対連の活動には医療機関も参加し、また原告は竹中医師から会議中の休憩や体操等について指示を与えられ、その指示に従って行動していたことが認められるので、この活動に従事したことをもって腰痛症の長期化を招いたと断ずることはできない。
<証拠>によれば「腰痛症」と題するパンフレットには「自動車運転など座りっぱなしの全く力仕事でない労働によっても、腰痛が多発することが明らかになってきた」旨の記載が認められ、<証拠>によれば、原告は休業中あるいは出社の際などに自動車を運転し、昭和五八年一月二六日から同年一二月三〇日までの間は一日当たり平均四二キロメートル走行していた事実が認められるが、右パンフレットの記事は従来軽い作業と思われていた自動車運転についても職業運転手等が長時間運転をし同一の姿勢を保持することによって腰痛に罹患することがあるということを示しているにすぎないのであって運転自体が腰痛によって禁忌であることを示すものではなく、<証拠>によれば、竹中医師は、原告が腰痛軽快時に自動車を運転することを禁止しておらず、過度にわたらないよう指示していたものであることが認められ、また一日当たりの走行距離が平均四二キロメートルであった時期は原告の症状固定前後のことであるから、右事実をもって自動車運転が原告の腰痛症に悪影響を及ぼしたと認めることはできないのみならず、自動車運転が原告の腰痛症の長期化あるいは治癒を妨げたと認めるに足りる証拠もない。
2 後遺症による逸失利益
(一) 原告が背部、腰部、両下肢に重圧感、凝り感、冷え等の後遺障害を残し、後遺障害一二級の認定を受けたことは当事者間に争いがなく、右後遺障害は、前記認定事実によれば、第一次腰痛症によって起きたものと認めるのが相当である。
(二) 後遺障害一二級の労働能力喪失率は労働能力喪失率表(労働省労働基準局長通牒昭和三二年七月二日基発第五五一号)によれば一四パーセントであり、前記認定の原告の本件解雇時の自覚症状、そのころの自動車運転の状況、症状固定前における職対連の活動状況、<証拠>によって認められる原告の本件解雇後の活動状況に照らすと右喪失率を上回るものとは認め難い。
そして、原告の後遺障害は、難治性の腰痛症に起因するとはいえ、それは生涯残ると認められる器質的障害に基づくものではなく精神的負荷によって増幅された慢性疲労が蓄積され難治性のものになったもので、しかも、本件解雇によりその精神的負荷の原因から解放されることに鑑みると後遺障害の残存する期間は五年とみるのが相当である。
(三) <証拠>によれば、原告の症状が固定した昭和五八年度の年収は二一六万三三六三円であることが認められる。
(四) したがって、原告の右後遺障害による逸失利益は、ホフマン式計算により中間利息を控除して計算する(五年に対応する新ホフマン係数は四・三六四三である)と一三二万一八一九円となる。
3 慰藉料
本件に現れた一切の事情を考慮すると、第一次及び第二次腰痛症に対する慰藉料は三〇〇万円、後遺障害に対する慰藉料は二〇〇万円が、それぞれ相当である。
4 損害の填補
原告は、労働者災害補償保険から後遺障害に対する補償給付として九四万〇二八五円の支給を受けたことは当事者間に争いがない。
5 弁護士費用
原告が本訴の提起、追行を原告訴訟代理人に委任し、報酬の支払を約したことは、本件記録及び弁論の全趣旨から認められる。そして、右事実に本件訴訟の内容、口頭弁論期日の回数、請求認容額等諸般の事情を斟酌すると被告に負担させるべき弁護士費用としては五五万円が相当である。
四 以上によれば、原告の損害賠償請求に関する本訴請求は、前記三23の損害額六三二万一八一九円から同三4の九四万〇二八五円を控除した五三八万一五三四円と同三5の損害金五五万円との合計額五九三万一五三四円及びこれに対する本訴状送達日の翌日である昭和五九年一二月七日(記録上明らか)から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却する。
訴訟費用の負担については民訴法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 清水信之 裁判官 遠山和光 裁判官 根本渉は転任につき署名捺印することができない。裁判長裁判官 清水信之)